【どうする!】桶狭間の戦いはまだ終わっていない!? ~名古屋市 vs 豊明市~

いやいや、桶狭間の戦いは今川義元が奇襲?を受け、織田信長が勝利して終わってるだろ。
その通りなんですが、今回は現代の桶狭間の戦いの話。

「名古屋市」と「豊明市」の戦いの話です。

「桶狭間の戦い」の戦地はどこなのか

桶狭間の戦いはどこで行われたのか?
今川義元は、どこに陣を構えたのか?
もっと簡潔に言えば義元はどこで戦死したのか?
さらに言えば、戦死したのは豊明市なのか?名古屋市なのか?

豊明市説

豊明市は昭和13年「国指定史跡」に指定された桶狭間古戦場跡があり、国から史跡のお墨付きをもらい、
現在に至るまで管理を任されている。

名古屋市説

「信長公記」によると「桶狭間山に陣を構えていた義元は織田軍の奇襲を受け西の深田際まで押され遂に討死した」
と記されており、その深田という地が名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園のある辺りだという近年の調査結果があり、
名古屋市説が濃厚となっている。

名古屋市は2010年にその桶狭間古戦場公園を整備し、桶狭間の合戦を再現した展示物や信長、義元の像などを作り
テーマパークとしている。

2つの桶狭間古戦場

この様な経緯で、現在豊明市、名古屋市、2箇所に桶狭間古戦場が存在しています。
しかし、どちらも説であり、タイムマシーンで現地調査でもしない限り、どちらが正解か断言
できません。

とりあえず訪問してみる

今年の2月に桶狭間古戦場周辺の砦跡や城跡を散策してきました。
もちろん豊明市、名古屋市両の史跡を回ります。

NHK大河ドラマ「どうする家康」が1月から放送され、第1話が桶狭間の戦いから始まったせいで、
結構賑わっておりました。

豊明市 vs 名古屋市

露骨な争いがあるわけではありませんが、名古屋市は形勢逆転ムードで、さらに「どうする家康」効果を追い風に、行け行け感があります。一方、豊明市は普段と変わりなく通常営業という感じです。

「国指定史跡」桶狭間古戦場伝説地(豊明市)

名鉄「中京競馬場前駅」で下車します。
ホームは名古屋市ですが、改札を出ると豊明市です。駅の中に市境があります。

南側の改札(国道1号線側)を出るとこの様な案内板があり、迷うことはありません。

最近建てられた案内板には「桶狭間古戦場伝説地」とあり語尾が「伝説地」となっており、
やや弱気になっている印象を受けます。

桶狭間古戦場跡の標柱

桶狭七石表

今川側の子孫が江戸時代にこの地を訪れ、今川軍七人の戦死者を弔うため村人に戦死した
場所を尋ね、その場所に七つの弔の碑を建てたと言われており、公園内あります。

こんな狭い公園内で七人が戦死というのも不自然ですが、

そこは突っ込んでは行けないところです。

そもそも、江戸時代ということは、桶狭間の戦いから240年余り経過しており、
村人への聞き取りといっても、言い伝えの言い伝えくらいで、信憑性には疑問があります。

一号表が義元のもので、義元の墓と勘違いした旅人が線香やお供物を手向けたことから
後にこの墓碑が造られたということです。

豊明市が想定する今川軍の進軍ルート(緑線)

桶狭間の合戦前日、沓掛城(豊明市)に居た今川軍は、最短でここ古戦場伝説地
へ進軍したとされています。
正確な進軍ルートが分かってないことから、便宜上最短としているようですが、
あくまで、桶狭間の戦いはここ伝説地(豊明市)だという前提です。

お化け地蔵

桶狭間古戦場伝説地の道路を隔てた対面にずらりと並ぶお地蔵様

むかし、桶狭間では亡霊が現れる話が伝えられており、お化け地蔵を建ててから現れなくなった
そうです。奥に小さく写り込んで立っているのがお化け地蔵と言われています。

桶狭間古戦場公園(名古屋市)へ徒歩で向かう

豊明市の桶狭間伝説地から名古屋市の古戦場公園までは、1.5キロ程度です。

ダラダラと続く坂道を進みます。ここはまだ豊明市の館(やかた)という所です。

歩いてみるとうねりのある地形であることがよくわかります。

登って下るともうそこは名古屋市緑区桶狭間

桶狭間古戦場公園(名古屋市)

どこにでもある住宅街の中の公園でしたが、2010年に大規模な改修が行われました。

隣接するホームセンターには時々来ていましたが、全く気づいていませんでした。

信長と義元の像が立ちました。

今川義元戦死の地の碑が立ちました。(左)

桶狭間の戦いジオラマ解説板?

公園の半分は桶狭間の戦いを解説する散歩道のようになっています。
分かりづらいですが、赤色は今川軍の進軍ルート。
青色は織田軍の進軍ルートになっています。

沓掛城のジオラマらしいですが、何もありません。
スマホでQRコードを読み取って見る方式の様です。

今川公首洗の泉

この泉で義元の首を洗い清めたそうです。

もちろん実際にここで洗ったわけではありません。

名古屋市が想定する今川軍の進軍ルート(赤線)

名鉄前後駅の東を通り、栄中学校の南を通り、大根交差点から東池、ほっともっと桶狭間店裏を
通って進軍したとされています。古戦場公園が戦場なら、妥当なルートだと思います。

おけはざま山(今川義元本陣跡)

桶狭間古戦場公園から100メートル程離れた住宅街の中にこの様な石標があり、
ここが義元の本陣跡だとされており、ここは名古屋市です。

本陣跡の石標を右に見ながら、おけはざま山の山頂方面を撮影しています。

白いガードレールがありますが、その向こうは豊明市です。(正確には道路の中心を境に)

ガードレールの外側(豊明市側)から撮影しています。

義元の本陣はこの辺りであった可能性は無いのでしょうか?(豊明市)

今川軍は、ここから桶狭間古戦場公園方面(戦死した深田)へ行っ可能性は無いのだろうか。
ここに立ってみてそう思いました。ホームセンターの看板がよく見えます。

ガートレール裏に人知れず貼られた本陣跡を示す案内

その他の関連史跡めぐりをしてきました

延べ3日かけて名古屋市緑区、豊明市に点在する主な史跡めぐりをしてきました。
簡単に写真で紹介したいと思います。

解説文は、桶狭間史跡マップ、緑区散策マップ(桶狭間古戦場コース)の説明文を引用させて
頂いております。

<瀬名氏俊陣地跡> 名古屋市緑区

桶狭間の戦いの直前、今川軍の先鋒として活躍した瀬名氏俊(せな うじとし)が陣を敷いた場所。
氏俊はおけはざま山に本陣を設営後、大高城へ向かい戦死を免れた。

<戦評の松> 名古屋市緑区桶狭間

戦い当時大きな松があり、この下で今川軍の瀬名氏俊が戦評行ったとされる場所。
現在植えられている松は3代目。5月19日に白い馬に乗った義元の亡霊が現れるという伝説があり、
名古屋市営バスの停留所裏にあります。

<長福寺> 名古屋市緑区桶狭間

左側の看板(略縁起)に書かれている事を要約すると以下の様な内容

  • 桶狭間の戦い直前、今川軍が到着すると、この寺の僧は酒食を献じたと伝えられている
  • 義元が討死すると義元に仕える林阿弥(りんあみ)が今川方の武将の首検証を命じられた所
  • 境内の放生池は、別名「「血刀濯ぎ池」と言われ、血の付いた刀を洗い流したと伝えられている
  • 御本尊の阿弥陀如来像は、後に林阿弥が駿府から持参したもので、義元ら戦没者を供養するために奉納された
  • 義元の御霊像も駿府から奉納されたが火災のため焼失した
  • 現在ある義元像は今川家の縁者、渡邉家(三河 江原村)が後に奉納されたもの

今川義元公首検証之跡

放生池  別名「「血刀濯ぎ池」

この池で血の着いた刀を洗い流したとされている。

<善照寺砦跡> 名古屋市緑区鳴海町

桶狭間で今川に奇襲をかける直前、信長はこの砦の下に兵を集結させたといわれています。

現在はご覧の通り公園になっています。

<中島砦跡> 名古屋市緑区鳴海町

信長が今川の侵略に備えて築いた三砦の一つ(他に善照寺砦、丹下砦)

現在は私有地になっていますが、所有者の厚意で自由に見学できるようになっています。

<丹下砦跡> 名古屋市緑区鳴海町

信長が築いた三砦のうちの一つ(他に善照寺砦、中島砦)
現在は住宅になっており、面影はありません。

<鳴海城跡> 名古屋市緑区鳴海町

今川の重要な拠点となった城でしたが、桶狭間で義元が破れ、その首と引き換えに織田に
明け渡されました。現在は公園になっており、遺構は全く残っていません。

最後の案内板は、公園内ではなく、三菱UFJ銀行隣りの成海神社内にあります。

<高根山(たかねやま)> 名古屋市緑区有松町


高根山(たかねやま)は、今川軍にとって「織田軍の動きを監視し、本陣を守る最前線の要衝」として
重要な場所でした。

合戦当日、織田軍の佐々政次・千秋季忠ら約300名が、この高根山・幕山・巻山に陣取る今川軍の先陣
(松井・井伊隊)に対して攻撃を仕掛けたとされています。

山頂からは名古屋駅前の高層ビル群まではっきり視認できました。

<武路釜ヶ谷(たけじかまがたに)> 名古屋市緑区武路町

中島砦より進撃してきた織田軍が、この谷に潜み突撃の機会を窺っていたとされる場所。
また、信長は義元を討ち取った後、釜ヶ谷に全軍を集め勝どきを上げたともされています。
現在は大学の駐車場となっており、関係者以外立ち入り禁止とせれています。

<七ツ塚> 名古屋市緑区桶狭間

信長は義元を討ち取った後、釜ヶ谷に全軍を集め勝どきを上げ、村人に戦死者を埋葬するよう命じ、
清須へ帰ったされており、現在も供養が続けられています。
他にも塚はあったそうだが、現在残っているのはここだけです。

住宅街の非常に分かりづらい場所にあるが、釜ヶ谷から向かう途中に案内板があった。

<大高城跡> 名古屋市緑区大高町

桶狭間の戦いは、今川がこの城を死守する戦いであって、織田がこの城を取り戻す戦いでもあったと思います。

大高城についてAIにまとめてもらいました。

「桶狭間の戦い」における大高城(おおだかじょう)は、今川軍にとっての「最前線兵站基地(補給拠点)」であり、
若き日の徳川家康(当時は松平元康)がその実力を世に示した出世作の舞台でもあります。

1. 合戦における大高城の役割

大高城は、織田領の中に孤立した今川方の「飛び地」のような城でした。

  • 織田軍による包囲網(兵糧攻め): 織田信長は、大高城を封じ込めるために周囲に丸根砦鷲津砦を築き、
    兵糧の搬入を完全に遮断していました。城内は飢餓寸前の危機的状況にありました。
  • 家康の「兵糧入れ」: 今川義元から命じられた松平元康(家康)が、敵の包囲網をかいくぐって米を運び込む
    ことに成功。これが有名な「大高城の兵糧入れ」です。
  • 周囲の砦の攻略: 合戦当日、家康はそのまま大高城から出陣し、包囲していた丸根砦を猛攻の末に落としました。
    これにより大高城の安全を確保し、義元の本隊を迎え入れる準備を整えたのです。 

2. 合戦直後の状況

義元が討たれたという急報が届いた時、家康は大高城で休息中でした。

  • 家康の脱出: 最初は誤報だと信じなかった家康ですが、事実と判明すると、織田軍に包囲される前に夜陰に乗じて
    城を脱出。命からがら旧領の岡崎城へと引き揚げました。
  • 今川支配の終焉: 大高城を守っていた今川の将兵も、総大将の死と家康の撤退を受けて城を捨てて敗走しました。

3. その後の大高城

合戦後、大高城の運命は劇的に変わります。

  • 廃城へ: 今川勢が去った後、大高城は織田信長の支配下に入りました。しかし、国境の緊張がなくなったことや、
    近くに名古屋城などが整備された歴史的背景もあり、慶長年間(1616年頃)には廃城となりました。
  • 現在の姿: 現在は「大高城跡公園」として整備されています。本丸や二の丸の跡、深く鋭い空堀(からぼり)
    残っており、当時の防御力の高さを今に伝えています。 

何も残っていなく、ただ広場があるだけです。

大高城跡から桶狭間方面を望む。
現在は高い建物が多く、さほど展望は良くない。

<丸根砦跡> 名古屋市緑区大高町

大高緑地公園近くの住宅街の急坂を歩き小高い丘を登り詰めると、丸根砦跡の石碑が建っています。
砦の跡らしいものは一切ありません。
大高城が今川の手に落ちたあと、信長が大高城を包囲するように築いた砦の一つです。

桶狭間の戦いのときは、織田方が立てこもったが、大高城へ兵糧入を命じられた松平元康(徳川家康)が
鉄砲を用いて攻撃し、激戦の後守備側は全滅したと言われています。
(名古屋市教育委員会、案内板より引用)

CGで復元された丸根砦と大高城の展望が掲示されていた。

<鷲津砦跡> 名古屋市緑区大高町

現在は丸根砦跡から数百メートル離れた県道沿いに整備された公園で、丸根砦同様、信長が大高城を包囲
するために築かれた砦でしたが、今川軍の攻撃を受けて全滅しました。

看板裏の細い階段を登って行くと、鷲津砦跡の石碑があるだけで、砦であったことの痕跡はありません。

さらに進むとブランコだけの小さな公園がありました。

住宅街の急坂を降りる。新幹線の高架よりは高い場所に有る。

<氷上砦跡> 名古屋市緑区大高町

信長が大高城を包囲するために築かれた砦の一つだと思うが、詳細は分かりません。

石段を登りつめると「氷上姉子神社」があリ、ガイドパンフには氷上砦跡とありますが、
その痕跡を見つける事はできませんでした。

参道脇に信長攻略のスタンプラリーのQRコードはあった。

<沓掛城址> 豊明市沓掛町

義元が桶狭間合戦前日に着陣した場所。堀跡と思しきものがはっきり残っています。

<仙人塚> 豊明市前後町

豊明市内にある曹源寺住職が、放置されている戦死者を見かねて葬った塚。
住宅街の一角にひっそりあり、現在も毎年供養祭が行われています。

桶狭間古戦場伝説地と共に国の史跡に指定されています。

最後に

豊明市前後町にある戦人塚から桶狭間方面に傾く夕日をみながらしみじみ思う。
平和な時代に生まれて良かったとなんと、安堵する。

桶狭間周辺の史跡マップ

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