1960年後半からから1980年にかけて、幼少期を碧南市大浜で過ごした筆者。
もと浜っ子というのは、元大浜っ子(碧南大浜育ち)て事です。
現在は碧南市を離れ、すでに碧南で過ごした期間より今住んでいる場所のほうが長くなりました。
さて、そんな私が行く大浜てらまち散歩。単純にノスタルジックな思い出を辿る散歩です。
おそらくは、同時期を碧南の大浜で過ごした人にしか共感されないと思いますが、
最後までお付き合い下さい。
人は、時には様々な事をリセットする為の場所、時間は必要なものです。
最初に書いておきますが、
「あらゆる情報は吟味の対象とするべし、これを行使するは、行使者自らの責とするべし
賢者よ、鵜呑みにするべからず」
間違っているかも知れないて事です。ww
大浜まちかどサロン
どこからでもよいのですが、ココ「大浜まちかどサロン」からスタートします。
中に入った事ないので、どうなっているのかは分かりません。
万一、知り合いや、同級生にばったり会ったりしたら「面倒くせぃ」のでお忍びで行きます。
ココはいわゆる観光案内所です。
「銀座」「ダルマ」があった場所です。パチンコ屋が並んで営業しており、大浜の貴重な
娯楽施設でした。あまりいい思い出はありません(笑)
奇跡的に「ダルマ」の写真が残っていました。
向かいの常行院から撮影したものです。白黒写真ですが、それほど古いものではなく、
単純にモノクロ写真にハマっていた時期があっただけです。(2001年6月撮影)
銀座、ダルマの前には、八百屋(名前忘れた)とナベカンがありました。
ナベカンの職人の技的な?ディスプレイが思い出されます。
現在は、八百屋もナベカンも綺麗さっぱりなくなっています。
九重味淋 みりん通り
すっかり観光地化された感じの九重味淋。看板がおしゃれになってます。
昔はこんな看板でした。
私が小学生くらいの頃は、みりん工場くらいにしか思ってなくて、いや、何も思ってなかった。
この場所からの写真。
碧南市を象徴する風景になりました。いろいろなパンフレットなどで見かけます。
大浜小学校の校章?
みりんの通りをさらに進むと交差点があり、九重味淋の「駐車場」看板の上の屋根瓦
なんだか、見たことのある絵柄です。
現役の浜っ子(大浜小学校生)黄色い帽子に同じマークはないか?
そうです。大浜小学校の校章が何故かココにあります。
詳細は知りませんが、九重味淋と大浜小学校とは何らかの関わりがあった様です。
大浜小学校の校庭の片隅にも同じ鬼瓦が3つ保存してあります。(2006年撮影)
現在も同じ場所にあるのかは不明です。
これは旧木造校舎に使用されていたものです。
九重味淋のマークと通じるところがあります。
日限地蔵(常行院)
常行院の裏側にある日限地蔵。
ココは私が幼い頃からほぼ変わっていないように見えます。
多くの人がお参りにやってきます。
私の祖父もよくお参りをしていました。
右側の祠堂の中には沢山のお地蔵さんが並び、幼心に覚えているのは、夜になると
提灯に火が入り、白熱電球の光でなんとも不気味でした。
お堂の軒下にこんな物があるのですが、これは手で持つ下駄であり、詳しくは、
奇跡の民話として語り継がれています。
興味のある方は読んでみて下さい。
現地に行けば、お堂の壁にも張ってあります。
画像をクリックすると拡大表示されます。
入り口にあった「日限地蔵の看板」最近見なくなったと思っていたら、
こんなところにありました。
西方寺
てらまち散歩なので、積極的にお寺も訪問します。
大浜には多くのお寺があり、それ故、最近ではてらまちとしてアピールしております。
ココは西方寺。大浜の人なら誰でも知っている大きなお寺です。
小学校の頃、左側にある集会場の様な建物に卓球台があって、学校帰りに卓球をした
記憶があります。(現在も同じ建物かどうかは分かりません)
今から思えば、勝手に卓球台を使って良かったのかどうか疑問ですが、
気軽に入れる大浜の大きなお寺でした。
大松が無くなっている!
昔は「阿弥陀の松」という大きな松の木があり、数本の支柱で境内がいっぱいだった
記憶があります。今、小さい松がある場所です。
昔の写真探したらありました。
これが、阿弥陀の松です。(2006年6月撮影)
乳母道(うばみち)を行く
乳母道という通りがあるのではなく、
誰が名付けたのか、写真の様な細い路地を総称して乳母道と言います。
昔は、おばあちゃんが孫を籐でできた乳母車に乗せて、こういった細道を散歩していました。
誰も乗っていない乳母車を押したおばあちゃんも沢山いました。
弱った足腰を支えるには乳母車がちょうど良かったのでしょう。
車が通るには細すぎる道。人同士がすれ違うと、挨拶しないと気まずい狭い道。
大浜にはそんな乳母道が無数に存在します。
大浜を訪れたなら、乳母道を歩き、大いに迷子になってみて下さい。
私が小学生の頃は、毎日違う道で帰ったものです。
湊橋の親柱
湊橋の袂にある一枚の写真。
湊橋を撮影したというより、川沿いの風景を撮影した写真。
大正15年とあるので、約96年前ということになる。
現在の郵便局のあたりから撮影したとみられるが、随分変わってる。
しかし海徳寺の屋根と思しきものが、変わらず見える。
写真と共に旧橋の親柱が4本ココに保存されているが、なにやら妻薬師堂の生垣にも
湊橋の遺構があるという情報を得た。
妻薬師堂と湊橋遺構
乳母道に迷い込み、やっとの思いで大通りに出ると妻薬師堂の脇にある赤い六角堂が鮮やかに
目に飛び込んでくる。
中には小さな木造のお地蔵さんが6体並んでいる。
なにか神秘的なものを感じる。
大浜のパワースポットの一つです。
妻薬師堂の生垣の土台に使用されている3~6つ?の石は、旧湊橋の欄干に使用されていたもの
らしいです。
確かに鉄のボルトでも刺さっていたかの様な、錆の着いた穴があります。
魚為閉店
コロナの影響で長らく休業していると思っていた「魚為」。
この日、店の前を通りかかると、シャッターになにか貼ってあるのを見つけた。
令和4年2月末に閉店とある。
大浜にたくさんあった魚屋。
今では数えるほどしかなく、縮小しつつも営業を続けていた魚為がついに閉店した。
子供の頃、母の買い物に付いてよく来た魚為。
営業していた頃の魚為の写真が残っていました。
堀川橋、賑わい横丁、蓮如街道
魚為のすぐ脇にある堀川橋。
私が子供の頃は、木造の太鼓橋だった。
子供心に、ボロい木の橋で渡るのが怖いと思った。
堀川橋の南側の通りを「賑わい横丁」と言われていた時代があったらしい。
今では賑わうどころか、寂しい通りである。
堀川橋から「賑わい横丁」方面を見たところ。
今でも残る陶器店。
たばこの対面販売はもうやっていないのだろうか。
ガラス戸が変わっていますね。
和菓子の大杉屋さん
改装前の大杉屋さんの写真がありました。
この頃は通りに面して入り口がありました。
2009年3月の陶器店の写真。
堀川橋から、北側(蓮如街道)を望む。
この道は、西端の応仁寺蓮如忌に続く道で、蓮如忌法要の日には、
露天が出て、多くの人で賑わったそうです。
私が幼少の頃、一度だけ祖父と一緒に露天の出店で、お好み焼きを買ってもらった
記憶があります。
その頃は、お祭りでもないのに何で露天の店が出るのか理解できませんでしたが、
今になって納得できました。
もちろん現在は露天の店が出ることはありません。
堀川蔵前通り
旧大浜警察署
湊橋の南側にある存在感のある古い建物。
改めて見ると八角形の塔が異彩を放つ不思議な建物。
中に入ったことは無いが、塔の部分は階段になっている様です。
一時期は、公民館として使用されていた時期もありました。
庭の片隅にバロメートルと書かれた謎の石柱があり、なにやら針のメーターがあります。
これは気圧計の様で、昔、漁師が船を出す時に利用していたそうです。
建物の裏側も素敵です。
昔、この庭に孔雀がいて、学校帰りに立ち寄り、羽を広げているのを見て、
感動した記憶があります。
称名寺
小学生の頃、鐘つき堂の上で、メンコ(碧南では「ぶっちん」と言ってました)とか、
コマで遊んだ記憶があります。
鐘を鳴らしたりすると寺の人に怒られました。
改めて訪れると、こんな立派なお寺だったんですね。
昔はこんな物なかったと思います。
赤レンガ倉庫
大浜港にレンガ造りの倉庫がありました。
2010年に解体とありますので、12年前までここに存在していた事になります。
その間、数回碧南を訪れましたが、ここへは来ておらず、気がついたら無くなっていました。
小学生の頃は、歴史的な価値のあるものだとわかるはずもなく、見るたびにお化け屋敷の様で、
夜、窓から人の顔が見えたとか、幽霊目撃談がまことしやかにささやかれ、近づいては行けない
場所とされていました。
今から思えば、危険な港に子供を近づけないようにするため、大人が作ったウソ話だったと思います。
しかし、なぜか今でもこの場所に来ると、心拍数が上がるような気がします。
解体されましたが、柱と下部が少しだけそのまま残されています。
こんな形で保存されています。
古い写真探したら、一枚だけありました。赤レンガ倉庫の写真。
対岸から大浜港を撮影して偶然写り込んだものですが、白い建物の向こう側に見える
赤レンガ倉庫。(2006年6月)
大浜小学校
我が母校の大浜小学校。
随分立派になりました。
私が低学年の頃は、まだ木造校舎が残っており、そこで授業も受けました。
母校にも自由に出入りできない時代になってしまいましたが、何故か、中に入りたいという
気持ちにはなりません。
もう遠い昔の事で、知っている先生がいる訳でもなく、いつまでも美化されたノルタルジーに
身を置く事は現実逃避に過ぎません。
一回だけシャッター押して、早々に立ち去ります。
2006年頃の大浜小学校
私が在校していた1970年代はこんな玄関はなく、1階の半分がピロティーになっていました。
こんな写真があったので載せておきます。
1978年の大浜小学校の航空写真です。
おそらく私もどこかに写っています。
毎日通った帰り道(錦町)
何故か強烈に記憶に残っている1本の巨木と地蔵堂
大浜小学校の前にある(あった)文省堂横の細道を入った乳母道。
写真では、どぶにフタがされているが、昔は、1メートル幅くらいの小川が建物ギリギリを
流れており、そこから張り出すように生えていた1本の巨木。
写真の木がそうです。写真は2006年に撮影したもので、小川はなくなりフタがされ、道幅も
その分拡幅されています。
友達に合わせて随分遠回りをして、ほぼ毎日この道をで帰った時期がありました。
木の近くに地蔵堂があって、おばあちゃんがいつもそこに居て、近所の人と話していて、
私達、小学生を見守っていたような気がします。
2022年5月 上の写真と同じ場所から撮影。
巨木はなくなり、左側の家屋も新築されている。
よく見る巨木があったところだけ、ブロック塀が新しい。
さらに、宇宙船の様な箱に入ったお地蔵様を発見。
巨木があったお宅の庭の片隅です。
世代が変わっても、お地蔵様をお守りする姿勢は継承されており、
なんだかホッとしたというか、安心したというか、嬉しくなりました。
堀川沿いにある薄ペラいアメリカン風ガソリンスタンド
堀川にかかる高与橋付近にある薄ペラのガソリンスタンドの廃墟。
私が子供の頃、営業していたのかどうか記憶にありません。
ところが、先日前を通りかかると、「ご自由にお入りください」とあります。
バリバリに割れたガラス戸のノブを恐る恐る回し中へ入ると・・・。
廃墟を利用した個展をやっているようで、作品が展示されていました。
「聴く者語る者」
よく見ると、開催期間は過ぎています。まだ撤去されていないだけなのか、不明です。
この作品は、壊れてしまったのか、そもそもこれ自身が作品なのかも不明です。
この廃墟感そのものが作品であり、アートであると感じました。
現在は、中に入れるかも含めて、全てが不明です。
常行院
そして、ここ常行院で私の先祖代々のお墓に手を合わせて、大浜思い出散歩は一旦終了です。
次回予告 失われた大浜の海を探して
まだまだ記事は続きます。
次回予告です。
失われた大浜の海を探して・・・。
もう、無くなってしまった砂浜、美しい海水浴場の痕跡を探します。
パッチワークで覆われた筈の埋め立て地にも、必ず綻びはあります。
そんなほころびを見つけます。
お楽しみに。
大浜思い出写真
最後に。
大浜出身者で、遠く離れた地で働く人、移住してもう何十年も帰ってない人、
帰る気もない人。もう帰る家が大浜にない人、大浜を捨てた人。
そんな人にも見てほしい懐かしい写真。
思い出してほしい風景。
忘れてほしくない風景。
そんな写真を無言で貼っておきます。
全て現存しない風景です。
コメント
この記事を見て魚為さんの閉店を知りました。昔は碧南の人たちは本当に沢山魚を食べてましたので、道路には人が溢れるほどに賑わい、多くの人の生活の一部のようなお店でした。父母も祖父母も曾祖父母もお世話になった誰もが知ってるお店が閉店されたことは衝撃です。
偶々Googleのオススメに出てきましたので拝見させていただきました。
三珍庵さんやあいえい模型さんなど、まさかかつての個人商店の写真で残っているなんて驚きです。
懐かしい日々を思い出させていただきありがとうございます!
コメントありがとうございます。
昨日まで当たり前にあったものが無くなることは寂しいものです。
大浜は昔からあまり変わりませんでしたが、ここ数年で激変しています。
またしばらくしたら記事にしたいと思います。
私は豊田市旧挙母市生まれですが母の実家が半田で小学生の頃中学生の姉に連れられて大濱の港から小さな連絡船で半田港まで行きました。何となく駅から港までの風景が想い出せず残念です。でもあの港の風景は懐かしいです。海水浴は玉津浦、新須磨海水浴、行きました確か沖にタコ🐙のモニャメンが有りました。有り難うございます🎵。